教育の考え方あれこれ

「小学校の組み体操は危ないのに高さを競うリスクを冒すのはいかがなものか?」と言ったとある評論家の書き込みがあった。

この論説では「組み体操みたいな危ないことをするない!」と完全否定はしていない事に注目しているが、文体としては「組み体操なんて危ないじゃないか!」という風にも取れなくはない。

しかし、最近の公園の遊具撤去にしろ、学校での横並び教育にしろ、何かと安全・平等を強調しすぎるあまり、不自然な教育になっているのではないかと懸念する。

 

そもそも、人間社会に競争はつきもので、競争に負ければその後の社会的地位や給与など様々なものが勝者に劣ってしまうのは常であり、誰しもが経験するところだ。
しかし、学校ではひたすら平等を植え付けようとして、徒競走では順位を付けないで「みんな頑張ったで賞」が授与されていたりする。
演劇で何か役をするとなれば、主役多数、悪役多数という自体で、主演男優・主演女優なんてのは存在しない。
学期末に配られる成績も「よくできた」か「もう少し」しかない。
はたしてこれで大人になった時に晒される競争社会で生き残っていけるのだろうか?

安全に対しても、過剰なまでの反応をしている。
運動会でけが人が出た競技があれば、翌年からその競技は中止となる。
公園の遊具も、誰かが怪我を下からと言って撤去される。
何かすれば事故を起こす危険性は大なり小なりつきもので、そこをコントロールするのは大人の役目で、それは即撤去・即中止が本来取られるべき策ではないはずだ。
それは短絡・安直な方法で、結果的に安全を確保するために努力することをしなくなってしまう。
大事な事は、どうやったら事故を予防できるか考えることで、その結果が「中止」や「撤去」で片付けられてしまうのは大人の怠慢でしかない。

いつからこんな社会になってしまったのだろう。
社会は様々な問題をはらんでいて、いつでもその暴露を受けるリスクが誰しにもある。
そのリスクを回避する為には、どのようにして自分の身を守るか、どのようにして自分のみを立てるかを徹底的に考えることであろう。
それを考えない安直な策は、大人の怠慢であり、今後の子供たちが大人になった時に悪い結果をもたらしても良い結果をもたらすことはないだろうと危惧する。

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